夜明けの空気はいつもさわやかだ、涼しく、毎日日が昇るのを鑑賞することができる。
だから、早朝に活動するのがいい。
日が昇っている時間を、一日を早く始めるほど、もっと長く楽しむことができる。
もう少ししたら、昼の時間も涼しい季節が来るだろう。
とにかく、私はその時その時目に見えるものを写真を撮るのが好きだ。
今日は草が見えたので、フル写真を撮ってみた。
ここでちょっと!気にならない?人間が草を食べない理由?食べてもいいかな?
草は水分と繊維質と呼ばれるセルロースと少量のタンパク質で構成されているが、人間には草にあるセルロースを分解できる酵素がない。 そのため、人間が草を食べると、セルロースをほとんど消化吸収できず、すべて排泄するため、ダイエット時に菜食中心の献立を作るのだ。
食べることはできるが食べるな
毒草もあれば、強い草もある。
だからナムル料理は、水で茹でて食べるんだよ
遭難したり、食べるものがないときは、茹でて食べなさい
しかし、お湯を沸かすことができるなら、狩りをしなさい
菜食主義者だって?
じゃ、果物をさがして食べなさい
運が良ければ、野いちごでもあるだろう
頭の痛い雑草かな? 未知の益草か?
農耕社会が始まってから人類の生存のための食べ物生産の歴史は本当に大変な苦労の歴史だった。 土地を耕す農耕の労働は人類にとって苦労の代名詞となった。 それで「農作業」と言えば「苦労」という単語はどの国でも付いてくる接続語になるほどだ。 自然は山と野原に多様な植物を一年中何か青く押して生産しているが、なぜか食べ物はいつも不足し、苦労はいつもあふれた。 一言で雑草は多く、ありふれたものだが、農作物は少なく貴重だったからだ。
農作業が苦労の代名詞になったのは、何よりもまさに雑草という奴らのためだ。 いくら抜いても、振り向いたらまた湧き出る雑草のために死にそうだという。 春菊を植えたが、隣で春菊という雑草がしきりに上がってくるので、いらいらするのだ。 サンチュを植えたが、横からヒユという雑草がもっとたくさん生えてくるので、神経質になるのだ。 白菜を植えたが、横からミョンアジュがどんどん上がってくるので腹が立つのだ。 唐辛子を植えようとしたら、マンチョが先に出てきて畑を覆っているので、心が痛むのだ。
こいつの雑草のせいで本当に頭が痛いという。 なぜならヨモギとサンチュと白菜と唐辛子は農作物だ。 農作物は人が食べると有益なものだという確信がある。 ヨモギとヒユムシとミョンアジュとマンチョは雑草だ。 雑草は人が食べてはいけない草だという考えで完全に陥没していた。 したがって、雑草はすべて抜いて殺さなければならない。 これは作物であれは雑草だからだ。
収穫目的の植物は「作物」で
その作物の成長に害を及ぼすと「雑草」
人間の観点から分類·定義しただけ
地球全体の25万種の植物の中で
効能が明らかになったのは5%弱
有機農産物として価値を与えられるためには
消費者の関心と需要があってこそ可能
人類の歴史は、このように無意識的に世襲的な洗脳教育を受けてきた。 なぜ春菊は作物であり、春菊は雑草なのだろうか? なぜサンチュは作物であり、その隣にあるヒユの実は雑草でなければならないのかという疑問は、どういうわけかほとんど持たずに生きてきた。 原因はただ一つだ。 春菊とサンチュと大根と白菜、唐辛子はお金を払って種を買って撒いたものだが、春菊とヒユの実とミョンアジュとマンチョは望んでもいなかったのに、自然に湧き出て植えた作物を妨害するためだ。 一度雑草という名前がつけば、その不名誉なレッテルを剥がすことは非常に難しい。
雑草も悔しいが、それは二番目の問題だ。 農民がその敵と戦うのに苦労が並大抵ではない。 なぜなら、春菊より春菊が、サンチより肥やしが、白菜よりミョンアジュが、唐辛子よりマンチョがはるかに力強く湧き出るからだ。 ところが、春菊よりヨモギが、サンチュより肥やしが、白菜よりミョンアジュが、唐辛子やコンドゥレよりマンチョガに劣らず有益な野菜であり、薬草になれるということはほとんど考えられないまま長い歳月の間、苦労の農耕歴史を続けてきた。 実に残念なことだった。
雑草と農産物、雑草と薬草を分類するこの偉大な歴史が人類にとって苦労の長い歴史を開く偉大な錯誤になるとは誰も洞察できなかったようだ。
農学者たちは現在、山と野原に育つ山野草が4千種を超えるという。 このような分類は結局、人々の観点から重要な収穫目的のある植物は「作物」として区分し、その作物の成長に競争的な関係で繁殖して妨害を与えれば悪い奴の「雑草」に分類されるのだ。 各国の環境と食品文化によって、ある作物がある国では雑草に分類されたり、ある国では非常に貴重な作物と評価されたりもする。
海の向こうの隣にある中国にしてもそうだ。 漢族だけが集まって暮らす町に行けば、ツルニンジンと残台が数十年間、完全に天然農で腕のように育っていても、誰も手をつけなかった。 なぜ?雑草なだけだから? しかし、朝鮮族が入ると、そのような種が残りにくくなる。 なぜ?貴重な作物で薬草だから?
アフリカのケニアで市場に行ってみたところ、韓国ではただの雑草が、そこでは貴重なナムルとして売られていた。 下駄の葉だった。 韓国では高価な輸入農産物として売られているアボカドよりもさらに高く売れる農産物だった。 そこでは雑草ではなく貴重な「益草(益草)」、農産物だからだ。 一言で言えば、食べ物と食べられないもの、雑草と作物、野草と薬草に対する分類は、単に人間の観点から、それも地域ごとに文化ごとに人々の観点から異なるように定義した植物の分類に過ぎない。
米国の有名な詩人であり哲学者として知られるラルフ·ワルド·エマーソンは「雑草」についてこのような言葉を残した。 「雑草とは、その価値がまだ明らかになっていない植物だ。"
地球上には約25万種の植物があるという。 その中で機能と成分が確実に明らかになったのは5%しかないという。 15%程度がやっとその効能が一部明らかになっており、残りは全くその効能について明らかになったことがない。 それで雑草に分類されただけだ。
しかし、自然の立場では無駄な植物を芽生えさせない。 ただ、用途が異なり、目的が異なり、効能が異なるため、必要な種類のまま育つようにしているだけだ。 そのため、人々が雑草と呼ぶのは「未知草(未)」かもしれないが、「海草(害草)」とは断定できない。 ただ「未知の益草」の一つに過ぎない。
自然界のこのような包括的な効用性を洞察した昔の道人たちの植物観は、私たちとは全く違った。 農作物、野草、雑草などの分別的境界線に留まらなかった。 すべてが結局「未知の益草」であるという仮説を逃さなかった。 それで実験室も一つもなかったそのはるか昔に名前の分からない未知の草の中にどんな成分が含蓄されていてどんな効能をどのように発揮するのかその情報を解釈した。 このようにして実験室一つも持たずにサイエンス誌に発表もせずに、情熱的に探求した道人たちによって韓国だけでも約1千種の「未知草」だった草がその効用により「薬草」と認定され使われた。 このうち200種類余りが今日主に使われている薬草だ。
農薬も肥料も使わない有機農場や山や野原で天然農に育つ多様な「雑草」が実は「益草」という名誉を回復する瞬間、別途のエネルギーと費用投入なしにもおまけで得る炭素排出ゼロの農産物に変身することになる。 雑草という名の有機農または天然農産物が私たちの体にもたらす補薬効果もまたおまけとして得る贈り物だ。
しかし、その雑草がいくら有機栽培の補薬農産物だとしても、消費者が求めなければ、農夫が一人でそれを全部食べてしまうことはできない。 したがって、除草剤を使わない有機農夫は仕方なくその苦難の除草作業をまた延長するしかない。 しかし消費者がこのような有機農雑草農産物の価値を理解して熱心に食べてくれれば有機農農夫にとってそれは「除草作業」ではなく有機農産物の「収穫作業」に変わるだろう。 その雑草は草取りのための「経費支出」ではなく、収穫物の「所得源」に変わるだろう。
昔から東洋と西洋の先祖たちが土曜日と日曜日が休日になることとその日をどのように過ごさなければならないかを予見していたのかも知れない。 東洋の先祖たちは土曜日は「土の日」と言って、土と共に休暇を楽しむ日だと言ったようだ。 西洋の先祖たちは日曜日は「太陽の日(Sunday)」と言って野外に出て太陽と一緒に休暇を楽しむ日だと言ったようだ。
春の日が私たちの前にぐっと迫ってきた。 土曜日と日曜日は野外に出て日差しを浴びながら土の中の補薬を掘る楽しさを持ってみてはどうだろうか? 雑草に対する世襲された先入観を軽く手放せば、世界中がどれほど豊かな資源ですでに私たちの近くに近づいていることを発見することになる。
胸がわくわくする。 雑草に対する色眼鏡さえ外せば、私たちの目の前に広大な有機栽培場と補薬畑が天然色で広がる。
最近食べ物が多いので、あえて雑草まで食べなくても大丈夫だ。
薬効が良いからといって摂取しても、非常に長い期間を摂取しなければならず、量も毎日1トラックずつは摂取してこそ効果があるかどうかだ。
そのような面で西洋医療が便利だ。
もちろん、サプリメントは食べても死なないということであって、飲んで効果があるというわけではない。
栄養剤よりはバランスの取れた食事が役に立つ。
バランスの取れた食事ができない人に必要なのが栄養剤だ。
まんべんなく食べたら太らないよ
どうせなら一日三食を満遍なく食べよう