なんだかんだで、3つ目のブログを書く。
午後の日程が終わり、夕食をとる時間は午後7時。
最近暑いし、栄養分は供給しないといけないし、それで、最近好んで食べる夕飯のメニューは、天ぷらだ。
揚げ物が簡単ではありますが、食用油を多く使うと、処理に疲れる···
それで、できるだけ少ない量の食用油で揚げるようにする。
食用油は料理が、半分だけ浸かる程度が良い。
インダクションの温度は、強火で3分ほど予熱した後、弱火で揚げた方が良い。
理由は、初心者でも失敗することがないので
弱火で天ぷらを始め、温度が弱ければ、中々の温度を上げよう。
3分経つと、天ぷらをひっくり返してくれる。
そうすれば、食用油が天ぷらの前後にまんべんなく付いたはずだ。
いい色になるまで、ひっくり返しながら揚げるだけ。
私は残った油で、餃子も揚げた。
でも、油が残って目玉焼きもした···
こうすれば、油を残さず使える。
今日の夕食メニューの由来を調べてみよう。
天ぷらの由来!
ローマ帝国はイベリア半島にオリーブの森を造成し、食用油の供給基地とした。 このような影響でポルトガルはオリーブオイルが豊富で、揚げ物の料理文化も発達していた。 また、ポルトガルは15世紀に大航海時代を切り開いた海洋強国らしく海産物をたくさん食べ、ヨーロッパで初めて魚を油で揚げて食べ始めた。天ぷら調理法はポルトガルだけでなく、中世にオリーブオイルが多く生産される地中海沿岸地域で多く伝わってくる食品調理法でもあった。
スペインが1580年にポルトガルを併合した後、統合君主だったフェリペ2世は異教徒に対する弾圧の強度を高めた。 多くのユダヤ人が宗教の自由のためにイギリス、スコットランド、ベルギー、オランダなどに移住したが、この時移住したユダヤ人によってポルトガルの揚げ物文化が広がった。
ベルギー地域に伝来した天ぷら文化は、ジャガイモを長く細かく切って揚げて食べる今日のフライドポテト(French Fry)の元祖となった。 イギリスに移住した人たちが伝播した魚の天ぷらは、後日フィッシュアンドチップスという料理の起源となった。 16世紀にポルトガルの宣教師たちが天ぷら文化を日本に伝来したが、これによって日本に天ぷら(てんぷら)が誕生することになった。 ポルトガルの黒人奴隷商によって西アフリカに伝わった揚げ物文化は、黒人奴隷たちとともに米国に渡り、今日、米国式の「フライドチキン」を作り出した。
一般家庭で揚げ物ができるほど食用油が大衆化されたのは、20世紀に入って麺類が大量生産されてからだ。 産業革命と人口増加で食用と工業用油の需要が増加し、天ぷら料理を販売する飲食店が増えたが、動物性油の生産には限界があり、穀物の種を粉砕圧着する在来式搾油は収率が低かった。 1856年にイギリスで溶媒抽出法が開発され収率が増加し、1911年、米国企業P&Gが綿実油を半固体化させた食用ショートニングを大量生産して安い価格で販売し、食用油の大衆化時代が開かれた。
目玉焼き由来!
西洋はギリシャ時代から卵を食べ始めたと推定され、代表的な卵料理とソースがヨーロッパを中心に多様に発展した
紀元前1,100年前のギリシャ時代から小鳥の脳、卵、ワイン、香料をバラの花と一緒に挽いて作った料理があった
- 帝政ローマ(紀元前17年)以降、朝食に卵が添えられるようになり、卵を生地に使ったパスタの登場により広く拡散した
* ヒポクラテスは回復期の患者に酢に漬けた草卵(醋卵)が良いと記録
11世紀頃、法王庁で肉食を禁止した時期にも卵料理は食べられるようになり、金曜日には肉の代わりに食べる習慣もできた
- スペインのオムレツ(omelet)、ハンガリーのクロワッサン、フランスのマヨネーズとスクランブルエッグ、ケーキなどは今日まで多く愛用されている料理たち
* ケーキ(cake)の起源は新石器時代と推定されており、現在のような形は17世紀半ばに白身を利用してケーキの上部の形を作るアイシング処理後
復活祭の卵を交換する習慣は、17世紀頃に修道院で始まり、次第に一般に広がる過程で装飾が加えられ、今日に至ったものだ
アメリカ市民戦争(1861~1865)以後、ハムと卵が入ったサンドイッチが朝食として愛用され、今日の「アメリカンブラックファースト(American Breakfasts)」として定着
カクテルは1795年頃、米国で卵黄を入れた飲み物から始まったという説があり、その中でもエッグノッグ(eggnog)は疲労解消に良く、クリスマスドリンクとして利用されている
東洋で卵を食べ始めた時期は西洋より早い方ですが、菜食が発達した食文化のため、卵料理の多様性は少ない方です
約4,000年前にインド、マレーシア、ミャンマーなどで鶏を家で飼い始めてから卵を食べ始めたと推定される
- インドのカシ族とマリオ族は復活の意味を持つ卵を死者のように埋葬する風俗があった('10、パワーフードスーパーフード)
日本は近代に入り、急速に卵料理が発達し、オムレツ(オムライス)、そば、すし、かすドス(菓子)、卵プリンなどが誕生
餃子由来!
韓国や中国、日本の人々は、ほとんどが餃子を『三国志』に出てくる諸葛孔明が発明したと聞いている。 南蛮征伐を終えて帰ってくる時、南蛮捕虜の命を救うために作った食べ物だということだ。 根拠は小説『三国志』、つまり『三国志』の内容にある。 暴風雨を鎮めるために人の頭を川に投げて祭祀を行う代わりに、小麦粉を人の頭の形にこねて捧げたところ、川の水が穏やかになったというのだ。 餃子を丸く作る理由であり、餃子という名前もまた供え物として捧げられそうになった南蛮人の頭から由来し、餃子になったということだ。 それでは常識として知っている餃子の由来、果たして事実なのだろうか? 当然違う。 羅寛中が書いた『三国志』はあくまでも小説に過ぎない。 歴史的事実とは程遠い。 羅貫中の創作に過ぎないが、もちろんそれなりの根拠はある。 三国志が使われる約200年前の宋の時代に高僧が書いた「事物起源」という本に根拠が出てくる。 貝冠小説に「餃子」は、三国の蜀の諸葛孔明が南の蛮族の頭に代わって作ったという内容があると書かれている。 貝冠小説は民間に流れる話を集めて編んだ本だ。 だから宋の時、民間に口伝で流れる話をナ·グァンジュンが引っぱって 三国志に書いたものだが、まるで歴史的事実であるかのように既成事実化された。
餃子を初めて作った人物が諸葛孔明でなければ、餃子はいつ誰が作ったのだろうか? 元祖おばあさんでもなく、餃子のような食べ物を特定人が開発して世の中に広めたと見ることは難しい。 ただ、中国でマンドゥという名前の食べ物が出てきたのは3世紀頃だ。 三国時代直後に入って、秦の時代にソクソクが書いた「兵部(餠賦)」にマンドゥという食べ物の名前が初めて見える。 ピョンブは餅の歌という意味だ。 「春の始まりは陰陽が交差する時代だ。 寒さはすでに消え、暖かくなったが、まだ暑くはない。 この季節に合わせて宴会を開き、餃子を作る」
解釈すると、陰の気運である冬が過ぎ、陽の気運である春が始まる日である旧正月に、餃子で天に祭祀を行った後、陰福に分けて食べたという意味だ。 いつからお正月に餃子を作っており、また餃子がどれほど貴重な食べ物だったかを推察することができる。 この頃、餃子関連の歴史記録が『晋書』の「夏増伝」にも出てくる。 秦の人の賀増はとてつもない金持ちで、食べ物の贅沢が並大抵ではなかった。 チントク(蒸餠)を食べる時、上の部分が十の字に分かれなければ、最初から口にしなかったという。 ここから「チントク」と移した増瓶は、米粉ではなく小麦粉を蒸したもので、上部が十文字に割れたということは、発酵がまともな小麦粉餅という意味だ。 言い換えれば、牛を入れずに蒸した餃子、いわゆる中国式の餃子だ。 ちなみに、賀曾は三国時代の諸葛孔明や兵部を使った秦の俗釈のような時代の人だ。 結論的に、餃子を諸葛孔明が発明したわけではないが、諸葛孔明が暮らした3世紀頃に餃子が集中的に発達したのは見える。 それでは餃子の宗主国は3世紀頃の中国だろうか? 餃子を「小麦粉の生地、あるいは小麦粉の生地の中に多様な具を入れて蒸して食べる食べ物」と定義すれば、国ごとに呼ぶ名前は違っても、地球村のほとんどの国で餃子を食べる。 中国、韓国、日本はもちろん、モンゴルと中央アジア、そしてロシアとイタリアでも食べる。 セモリナの小麦粉にチーズを入れて作ったイタリアのラビオリも餃子の一種だ。 では、中国の麺をマルコ·ポーロがイタリアに伝えたのがスパゲッティのルーツだという主張のように、3世紀に中国で始まった餃子もやはり様々な経路を経て世界各地に広がっていったのだろうか? ギョーザの伝播経路については諸説ある。 広く広がっているのが中国起源説だ。 もちろん、主に中国で主張する理論だ。 しかし、反対の学説も少なくない。 ギョーザは中央アジアで発達し、シルクロードに乗って中国に流れ込んだという説だ。 中国起源説とは正反対の理論だ。 餃子がどのように世界に広がったのかについて注目してみる部分がある。 それは、多くの国で呼ばれている餃子の名前です。
中国では餃子を「マントウ(Mantou)」と呼ぶ。 最初の記録は前述したように、3世紀に書かれた続釈の「兵部」という詩に出てくる。 ちなみに、兵部には今の漢字である餃子ではなく、餃子と書かれている。 ここで「マン(曼)」は「引く」「伸ばす」という意味とともに「美しい」という意味もある。 とにかく中国では餃子をマントゥと言うが、周辺の多くの国でも餃子を呼ぶ名前が非常に似ている。 今は中国の領土だが、もともとは独立国で、かつては西域と呼ばれていたウイグルでは、餃子をマンタ(Manta)という。 中国北方に住んでいた部族で、やはり西域でも活動したタタールではマントゥ(Mantu)だ。 もう少し西に行って、カザフスタンとウズベキスタンではマンティ(Manti)、アフガニスタンはマントウ(Mantu)、黒海付近のコーカサスとトルコでは餃子をマンティ(Manti)と呼ぶ。 これまで言及した国々は、すべてローマとペルシャから中国につながる古代交易路だったシルクロードにある国々だ。 ちなみにシルクロードの延長線にある韓国では餃子(Mandu)、日本は満州(Manju)、そしてネパールとチベットはモモ(Momo)という。 シルクロードを基準に周辺国の餃子の名前がすべて似ている理由は何だろうか? もちろん偶然の一致かもしれない。 しかし、餃子が伝わり、名前まで一緒に伝わった可能性が高い。
すると、場合の数は二つだ。 一つは3世紀以来、中国の餃子がシルクロードに乗って西域に伝わり、マンティ、マントゥに変わった可能性、もう一つは西域の食べ物が中国に伝わり、餃子になった可能性だ。 この場合、中国のマントゥは西域のマントゥやマントゥを漢字で音訳したものかもしれない。 消す、伸ばす、あるいは美しいという意味で刻む「萬」の字を書いたのも、小麦粉の生地を伸ばして作った食べ物だったためか、あるいは3世紀以前には中国で小麦粉で作った餃子が貴重で、それで美しい食べ物だったために書いた漢字かもしれない。 実は餃子が中国で作られて西域に広がったのか、あるいは西域の食べ物が中国に伝わり餃子に繰り返し発展したのか、定説はない。 ただ、餃子が中国で作られて世界に広がったという中国の主張とは違って、西域の食べ物が中国に伝わり、餃子に発展した可能性がむしろ高い。
まず小麦の原産地はメソポタミア地方だ。 今のシリア、イラク、イラン一帯だ。 ここの小麦がシルクロードに沿って西駅から中原に伝わった。 司馬遷の『史記』や班固の『漢書』『西域列伝』を見ると、小麦は紀元前1世紀の漢武帝以降から中国に本格的に伝わる。 紀元前2世紀、ローマ帝国ではすでに小麦を挽いて作った多様なパンを食べたが、中国では餃子が3世紀頃から登場する。 このように時差がある理由は、小麦が砂漠を経て遠い道を通って中国に伝わったためだろう。 もう一つ、科学史学者たちは小麦を挽いて小麦粉で作る石臼と水車を利用する製粉技術も西域を通じて中国に伝わったものと見ている。 小麦の伝播過程及び経路と一致する。 ところで、このように伝わった小麦と製粉技術で作った餃子が、3世紀に中国で初めて作られ、西域に逆輸出されたと見るのが果たして合理的だろうか? それよりは餃子のような食べ物も小麦·製粉技術と共に西域から中国に流れ込んだと見るのが筋だろう。
由来を書いているうちに長くなった···
それでも、由来を知り、食べると、有識に見えるかもしれない。